明月堂の創業は1929年…博多一筋
味にこだわり93年目を迎えました。

昭和4年、明月堂は福岡市天神・今泉若宮町にて創業しました。
その頃はハース巻き煎餅の製造卸売りで成功をおさめていましたが、創業者の秋丸祐一郎は製造だけでなく、
お客様に直接販売したいという思いから昭和9年に商都博多の川端町に店を構えました。
創業以来93年、地域色と独創的な菓子づくりを貫き、なかでも「博多通りもん」は
世界食品コンクール「モンドセレクション」で金賞を連続受賞するなど、その美味しさが国内外で認められ、
明月堂の名前も全国に誇れる博多名菓の菓子舗として知られるようになりました。

1929(昭和4年)
◆秋丸製菓所を起業
お菓子づくりに明日の夢を託した創業者の秋丸祐一郎、大阪での厳しい修行を経て、昭和4年、福岡市天神・今泉若宮町に「秋丸製菓所」を開く。
最初は、煎餅の生地を飴に巻きつけたセル巻き煎餅を、そしてその後それを半分にしたハース巻き煎餅を製造。独特の技法を凝らした祐一郎のセル巻き煎餅は人気を博す。
1934(昭和9年)
◆博多川端に秋丸明月堂創業
「お菓子はみんなに夢を育む」が信念の祐一郎。
セル巻き煎餅の製造卸で成功をおさめると、工場ではなく直接お客様の笑顔を見ながらお菓子を売りたいと思うようになり、昭和9年、櫛田神社裏の川端商店街(川端は当時、商都博多の中心)に店を構える。
※現在の明月堂川端店のある場所

◆二代目の当主、秋丸卓也誕生
本店開業を祝うかのようにもうひとつ大きな幸せが明月堂に訪れる。
同年、秋丸卓也誕生。
7人兄弟の長男として生まれた卓也は、明月堂を受け継ぐべく厳しく育てられる。
卓也自身も幼い頃から商売に興味があったらしく、小学校の頃には自転車でお客様の所を廻って仕事の手伝いをしていた。
1949(昭和24年)
◆明月堂 創業20周年
戦後、統制経済が続き思うようなお菓子づくりができず、明月堂は「秋丸金物店」として営業していた。
”苦しいときにこそお菓子が必要だ。甘いものは人々を幸せな気持ちにする”と思い続け、時を待っていた祐一郎。
自分は菓子職人だという自負に動かされ、金物店のほんの片隅からお菓子屋を再開。
1950(昭和25年)
◆明月饅頭の誕生
やがて時代は高度成長期へ。これまで煎餅等を売っていた明月堂も、高級菓子路線への道を模索し始める。
和菓子、明月饅頭、カステラ饅頭、カステラと商品も充実。
店名を受け継いだ「明月饅頭」は、博多通りもんよりひとまわりぐらい大きく、中には手亡豆(てぼまめ:インゲン豆の一種)の白餡が丸ボーロのような茶色い生地に包まれていた。
当時は人気を博したが、今となっては明月堂の幻の名菓となっている。
1952(昭和27年)
◆秋丸卓也、大阪修業へ
長男の卓也は高校を卒業すると、大阪ミナミの菓子問屋に丁稚として住み込みで働くようになる。
◆明月堂 新装開店
卓也が大阪に修業に出かけていた頃、博多では明月堂川端店が全面改築。
まだアーケードがなかった川端通り商店街の入口付近に、ひときわ目立つ建物が現れた。
1階は店舗、2階はモダンな内装の喫茶店。
専属のバーテンダーが珈琲やフルーツポンチを出してくれた。
当時は喫茶店がブームで、明月堂の喫茶店もたいそう賑わっていた。
1956(昭和31年)
◆”最初の”博多じまん誕生
昭和29年に、大阪で経営を学んでいた卓也が博多に呼び戻され、すぐに明月堂の経営を任されるようになる。
明月堂はやがて洋菓子づくりを始めるようになり、昭和31年頃には店頭でソフトクリームを販売し好評を博す。
その ソフトクリームの機械が壊れるというアクシデントを機に、残った材料を活かした新しいお菓子を開発し”最初の”「博多じまん」が誕生。明月饅頭以来の大ヒットとなる。
◆博多ステーションビルに入店
旧駅の南600メートルの場所に、地下1階地上7階のステーションビルと共に新しい博多駅が開業。
明月堂もいち早く入店する。「博多じまん」が看板商品として明月堂をリード。
※写真:博多ステーションビルに入った明月堂。ここから、博多の代表的な菓子店として成長していく。
写真右から、秋丸武士(現顧問)、秋丸祐一郎(初代社長)
1965(昭和40年)
◆カッティングカステラ登場
初代社長が始めたカステラは明月堂の看板商品として定着していたが、卓也は当時高級な贈答品だったカステラを、もっとたくさんの人に気軽に食べてもらいたいと考え「カッティング・カステラ」をつくり庶民のおやつにした。
岩田屋の明月堂コーナーでは連日行列ができるほどの大ヒット商品となる。
※写真:岩田屋でお客様の前でカステラカッティングのデモンストレーションを行う秋丸純一郎(現顧問)
1970(昭和45年)
◆明月堂 板付工場落成
博多じまんとカステラで好調な明月堂は雀居(ささい)に工場を新設。
創業40周年と板付工場の落成を同時に祝う。
1975(昭和50年)
◆明月堂 本社工場竣工
現在の明月堂本社位置に本社工場を建設。博多じまんやカステラの人気を受け、そのニーズに応える為に機械による量産化を行う。また、九州で初めてカステラ専用のトンネル窯を導入。
しかし、新幹線の開通を機に長崎カステラの老舗が福岡に進出し、たちまち福岡を席巻。
また「博多じまん」はその後伸び悩み、一度に二本の柱が傾いて苦悩する明月堂。ここで大きな転機を迎えることに。
1985(昭和60年)
◆「博多西洋和菓子」のコンセプト確立
末の弟、秋丸純一郎の提案で「西洋和菓子」が始まる。
明月堂はカステラの生産を縮小し、博多じまんの製造を中止。
材料を吟味し、他社にはない最高の西洋和菓子(オリジナル商品)を開発するべく、長男の卓也を中心に兄弟の力を結集していった。
※写真左より明月堂創業者:秋丸祐一郎の長男:秋丸卓也(現名誉顧問)、次男:佳三、三男:武士(現顧問)、五男:純一郎(現顧問)
1986(昭和61年)
◆明月堂の西洋和菓子 博多めんたいパイ「博多っ子」誕生
博多の伝統文化に深いこだわりを持つ卓也は、いつか手に入れたいと願っていた「博多っ子(はかたっこ)」という商標をついに千成屋から譲り受ける。
そして、試行錯誤の末にやっと完成した博多らしいお菓子、博多名物の明太子を使ったパイに、卓也は長年あたためてきたこの「博多っ子」の商標を与えた。
博多めんたいパイ「博多っ子」は明月堂久々のヒット作となる。
1988(昭和63年)
◆明月堂のコンセプトが明確に 「博多西洋和菓子」となる
博多っ子のヒット後3年間、さまざまなお菓子たちが生まれては消えていった。
悩の末、本格的に博多情緒を盛り込んだ新しい和洋折衷のお菓子を提案していくべきだとコンセプトを「博多西洋和菓子」に明確化。
商品名も博多っ子たちが愛着を覚える博多の祭や風物の中から覚えやすいものが選ばれるようになった。
※博多西洋和菓子第2弾の「上川端通り5-104」は現在も人気の高級どら焼。
1991(平成3年)
◆博多西洋和菓子第4弾として「川端ぜんざい」を商品化
日本一甘いと言われ、博多名物として親しまれてきた「川端ぜんざい」が1985年に廃業。 「ぜんざい広場」に姿を変えた時も明月堂は無料でぜんざいを振る舞う。
その縁もあり、明月堂はこの博多っ子に懐かしいぜんざいの味を博多西洋和菓子「川端ぜんざい」として復興。
博多の食文化の継承にも心を配るようになる。
1993(平成5年)
◆傑作まんじゅう「博多通りもん」誕生
博多西洋和菓子というコンセプトが確立したものの、なかなかヒット商品が生まれない中、たくさんのファンに待望されたのが明月堂のおいしい饅頭の復活。
日に日に高まるお客さまの声にやっと卓也も腰を上げる。
徹底的なリサーチの後、”まだ誰も食べたことのない饅頭づくり”のプロジェクトが始動する。
日本中どこにもない、高級な材料を使った饅頭を作りたいという卓也のこだわりから、ついに傑作まんじゅう「博多通りもん」が誕生!
2001(平成13年)
◆「博多通りもん」モンドセレクション金賞を受賞
第40回 2001年 モンドセレクション(ポルトガル)にて、明月堂の「博多通りもん」が金賞を受賞 。
(以来23年間、連続で金賞を受賞し、2007年~2023年は最高位特別金賞を授かる。)
ヨーロッパの厳しい目と舌で「博多通りもん」の品質と美味しさが認められている。
お土産に人気の「博多通りもん」は、今や世界に誇る博多名菓。
たくさんの方に親しまれ、オンラインショップでもリピーターが最も多い、明月堂の看板商品となる
2008(平成20年)
◆明月堂 第4工場完成
創業80周年を控え、2008年3月に明月堂本社工場(第4工場)が完成。
この新工場ができたことで「博多通りもん」の生産性も高まった。
実は「博多通りもん」が生み出される生産ラインはとてもデリケート。
新工場では耐震性も高め、地震などが起きても高い品質が維持できるように
配慮されている。
◆おいしい顔で焼き上がっています!
そして今日も!おいしそうなきつね色に焼き上がってどんどん生まれている明月堂の「博多通りもん」。
その数、実に1日20~30万個!
柔らかい白あんが舌の上でとろける博多の傑作まんじゅう「博多通りもん」を、
あなたのおやつタイムに、福岡・博多のお土産にどうぞ!

 

 
 

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